銀杏並木

仕事帰りのタクシーのなかから、金色の月が見えて。
まわりの雲が、輪っかのようになってて。
ビルの隙間から時折垣間見える、その美しい光景に、疲れが飛んだ。


公園の端っこあたりで降ろしてもらい、公園沿いに、ほんのしばし散歩した。
ふと足もとを見ると、また金色で。
気付いてなかったけど、銀杏並木がすっかり黄金色に色付いてた。


嬉しくなって。
もうすぐ朝だというのに、ちょっとばかし笑顔で木を見上げたり、足もと見て喜んだり。
街道の向かいにある交番のおまわりさんに、不審がられてたかもしれない。


黄金色の銀杏越しに、しばし金色の月を眺めた。


中村吉右衛門の「弁慶」(NHK時代劇)が無性に観たくなった。
オンタイムでは知らないけれど、CSで全話放送されたのを録りためてて。
今一度、銀杏と月を反芻しつつ、観たいと思ったのだ。


弁慶、という人物は、明確に史実に残ってるわけでなく、
出生場所と、義経の家来だったこと、義経と一緒に死んだ、くらいしかわかっていない。
江戸時代、安宅の関とか、弁慶の立ち往生(死ぬ場面)などが歌舞伎に採り上げられ、
義経の悲しい生い立ちや、謎めいた弁慶像が膨らんで、今も作品にする作家が多い。


歴史上の人物の、わかっている部分は史実に基づき、不明な部分を創作するという、
その作業には憧れる。
あたしの妄想力が掻き立てられる。


中村吉右衛門は素晴らしい役者であり、
彼が醸し出す空気感と切なく強い表情や演技に、あたしは心揺さぶられる。


「弁慶」という作品を今流してて、もう十回は越えて観続けてるのだけれど、
男は、美しいな、と、いつ観ても思う。
そして、あんな生き方もあるんだな、と、思わせられる。


作家の妄想部分で描かれた部分だけれど、
義経の自由な奔放さに男惚れした弁慶が、義経とともに歩むことを決意し、
源氏の複雑なお家事情に翻弄されながらも、奔走し、尽力し、
志半ばで、愛する家族を残して死んでしまう。


黄金色の銀杏と、金色の月を眺めて、なぜ、中村吉右衛門の「弁慶」を想ったのか。


たぶん、凛とした美しい生き方が、リンクしたのだと思う。


真摯に史実と向き合い、学び、人としての美しさを探求したならば、
今の時代でも、きっと、人に感銘と希望を得てもらえる歴史ドラマが作れる、
とも思えた。


個性は、アピールなどしなくても現れる。
人と違うことをしようとしなくても、
真摯に向き合えば、なにげないモノコトにも、創ったその人が宿り、籠められる。


調べごとばかりの作業だったせいか、体はだいじょうぶでも、頭が少々疲れてきた。
二合のグラスもそろそろ空だし。


黄金色の銀杏並木と、金色の、鏡のような月と、吉右衛門の弁慶を反芻しつつ、
しばし眠ろう。