頭んなかと、心んなかの、整頓をするために、酔いつつ書いてみる。


大切なことは、夏の夜明けに吹く風のごとく爽快なこと。
大事なことは、冬の夜更けに沁みる暖かなこと。
感じるべきは、秋の夕暮れに色づく樹々から囁かれること。
想うべきは、春の朝、空に描かれること。


これみな心が感ずること。


どんなちっちゃなことでも、オカシイ、と感ずることは、たぶんどこかオカシイ。
人は千差万別、人の想いと自分の想いは異なるけれど、
外に近い部分で感ずるオカシサは、やはりオカシイ。


心の深いとこは、誰のも計り知れない。
だって、自分のさえ、計り知れないのだから。


時折垣間見る、ふと感ずる想いを頼りに、自分の心を頭で考えたりする。
そんな間違いを、してしまう、疲れてると。


感じたことは、ただ、感ずるままであればいいのだ。


心と頭が直結する時はある。
けど、それは人為的にそうなるのではなく、無意識で、そうなる。
心も、頭も、それぞれ素直であれば、そんな時が訪れる。


無意識に。
偶然を装った、必然に、訪れる。


過去から今この時まで、重なり続けたさまざまな想いが、
言葉にできぬほど深く、複雑な彩りで、心に居る。


タイムマシンがあったなら、あたしは未来に飛ぶ。


一秒だって前に戻りたくない。
どんなときも懸命に選択し続けてきたから、同じことを、二度繰り返すのは好まない。


あたしが寿命尽きたであろうもっと先の時代に、タイムマシンがあったなら飛びたい。
どんなに素晴らしい世界に成長しているか、知りたいから。


福島の原発が爆発した時「あたしがカメラもって原発を直に撮影して来てやるよ」と
即座に思ったあの気持ちはなんだったのか。


そう心から願えた瞬間、命はこう使うのだ、と思えた、あれはなんだったんだろう。


あたしは長生きしたい。
と、思ってるにも関わらず、そんなふうに思えたのは、いったいなんだったんだろう。


今は、もっと違う方法を想い続けてる。
真実は、時を越えて、自ずから現れる。
その出現を助けるために、あたしにもできることがあるはず。


司馬遼太郎が、亡くなるまえに想い巡らせていた、土(くに)への想いが、
今、あたしには、とてもよくわかる。


土から生まれ、土に戻る、人という生き物、あたしたちにとって、
生まれ育った土地、生きている土地、その土(くに)は、掛け替えのないものなのだ。
文字通り、”掛け替え”することのでき”ない”大切なもの。


土も、海も、そこから生まれる、
人も、魚介類も、農産物も、動物や植物、すべての生きとし生けるものも、
金で買えるものじゃないのだ。


育てる人がいて、作る人がいて、穫る人がいて、はじめて、それを、
金、という単なるツールで、流通させることができるのだ。


みな生きている。
土や海、山々のなかで。
まず、それありき。


おごりはいけない。
人は、世の中に溢れる幾千万ものイキモノのうちの、たった一種類のイキモノで、
土に生かされてるということを、決して忘れちゃいけない。


原発は世の中に不要、だとは言わない。
けど、地震の多い国にとって、原発は、時限爆弾になる。


やばいって、まじで。
東電の極最上層部のみなさん、まつわる権力者のみなさん、
お金儲けは、原発以外でお考えください。


日本という国にとって、原発は、時限爆弾だ。
あたしたちの暮らす土(くに)に、原発は、危険だ。


どうすべきか。
心に手をあてて、ほんとうに、この国に生きるすべての人に、想ってほしい。


夏、エアコンが使えなくて困るなら、アスファルトを剥がして、土を出せばいい。
夜、道が暗いなら、火を点した行灯を持てばいい。
危ない、と思うなら、ものすごく気をつければいいんだ。
ぜんぶ用意された環境は、どこかオカシイのだよ。


酔ってはいるけれどね、想いはそのままだよ。
ネット環境が無くならざるを得なければ、なくなればいい。


もうそろそろ戻ろう。
イキモノとしての暮らしにさ。