メメント・モリ

夏の音は、蝉時雨[せみしぐれ]と、蜩[ひぐらし]。
陽炎のなかで、天から降ってくるような蝉時雨。
都心では聞けないけど、土と水の匂いがする場所で、日暮れ近くに鳴く蜩。


そして、地響くような花火の、どーん、という音、と、火薬の匂い。
打ち上がった花火はもちろん美しくて可愛くて素晴らしいけれど、
地から体に伝わる花火の轟[とどろき]が、好き。


あたしが生まれた街は、江戸の昔から今も、花火職人が多く残ってる。
今年も花火大会には帰れなかったけど。
あがる花火よりも、地響きを花火、と思えるようになったのは、はるか幼い日の頃から。


亡くなられた方々への慰霊で、花火は始まったのだそう。
狼煙[のろし]と花火を結びつける人もいるけれど、ソレとは違うようだ。


あたしが憧れてた天女は、江戸の花火について、こう教えてくれた。


 今のように暗い空にあげるのではなく、
 まだ日が沈みきっていない明るいうちにあげられてたようなの。
 記録によれば、防火対策の意味で、そうしてたそうだけど、
 わたしは、だけどね、
 花火を終えたあと真っ暗な空になるのが、江戸っ子は寂しかったんじゃないか、
 って思ってるんだ。


なんの根拠もなく、あたしも、そう思えた。


前述の、蝉時雨も、蜩も、なぜか、慰霊の花火とおなじようなオーラを持ってる。
あたしにとっては。


消えてしまった命、消えざるを得ない境遇のなかで散った命、
そして、生を愛おしむ儚く美しい想いが、夏の音にはあふれてる気がする。


夏は、生と死を、深く想う季節。


多くの死の上に、国があり、命があるのだ、と。
戦争だけでなく。


綿々と続く歴史のなかで多くの様々な死があって、
死ぬその時まで成し遂げてきた方々の想いや尽力、
死ぬことによってナニカを守り抜いたその想いや尽力、
それが、今、あたしたちを、いろんなカタチで生かしてくれてるのだ、と想う。


宗教や、右とか左とか、そんなことじゃなく、
人間として、いや、ひとつの生き物として、生と死を大切に扱うことは、
至極あたりまえの生業だと、心の底から想う。


メメント・モリ
死を想え。
真剣に死を想うならば、生がどれほど輝いているかを、知るのだと、あたしは想う。