邂逅
入江泰吉、という写真家がいる。
正しくは、いた。
奈良、つまり大和の自然と、奈良に生きる仏像を数多く写真におさめた人。
泣きたくなる写真を撮る人。
邂逅(かいこう)とは、思いがけなく出あうこと。偶然の出あい。めぐりあい。の意。
入江泰吉の写真集のひとつに、「邂逅(入江泰吉仏像写真の世界)」があって、
奈良の彼の美術館で、取り寄せて購入した両手でなければ持てぬほどの重たく大きな本。
そのなかには、生きた仏像が、何体も眠ってる、そんな本。
Queen「Made in Heaven」や Billie Holiday「Strange Fruit」のように、
いつでも聴けるわけじゃない音楽がある。
それ相応の心構えと、心持ちがなければ、やられてしまう音楽がある。
入江泰吉の「邂逅」は、そんな、写真集。
滅多には、開くことができないのだ。
*
数日まえ、あたしは、邂逅した。
偶然は、必然の隠れ蓑,なんて、あたしは思ってて、
それは、時が満ちた時に巡ってくる贈り物だと、重ねて,思う。
あたしは先祖を神だと思ってる,いわば無神論者,なのだけれど,
天の計らいってあると思う。
舵を採ってるのは、きっとそれぞれ自分の心なのだろうけれど,
人智を越えた流れというものはきっとあって,
常にうねりながら、
四次元、五次元の境界線を軽々と飛び越えつつ,変化を繰り返してるのだと思う。
こうしてもらいたいから,こうする,という、心を操るようなことをするのは無意味、
って、まえに書いたけれど,
そんなこと、ほんとになんの意味もなく、言ってしまえば、下らないことだと思う。
まずは、ベクトルを一方向に向ける。
こうしたい、こうしたらいい気がする,こっちのが絶対いい,これがいいよな。
とにかく、主観的なベクトルを飛ばす。
もちろん目指す結果はあってしかるべきだけれど,
その結果を得るために,操作するのはよくない,って言うことなのです。
一方向に飛ばしたベクトルが、ある程度進むと,ちょっと違う方向にも飛ばしたくなる。
むずむずしてきて。
そしたら、さっきとは違う想いで,また,違った一方向にベクトルを飛ばしてみる。
それが,いい,気がする。
正しいかどうかなんて,わかりません、あたしの主観だから。
ただ、あたしは信じて,そうしてる。
そこんとこが、大事なんだと思います。
ここになんども書いてることだけれど。
結果は,数秒後にわかることもあれば,一週間かかることもあります。
一年待たなければならないことも,何年も、何十年もかかることもあります。
死んじゃった大好きなじいちゃんは,死ぬちょっとまえに,
「なぁ、やっとわかったわ、なんで生きとったのか」って言ってました。
答えは、死んじゃったじいちゃんしかわかりません。
だけど、じいちゃん,わかって死ねて,きっと幸せだったと思います。
あたしが,今の時点で答えを出すのならば,
なぜ生きてるのか?
それは、生まれたから,だと思います。
そして、せっかく生まれたのだから,思いきり生きようや,って思います。
じいちゃんみたいに,死ぬ瞬間のその時に,「わかっちゃったー」って思いながら、
笑って終えられるように,思いっきり生きたいって思います。
*
そう,邂逅。
心のなかで完結していた多くのモノコトを、出す術を学ぶ時が来たことを感じたのです。
ふとしたことです、気付きは。
なんでも、ふいに、やってくるもの。
偶然,という隠れ蓑を被った必然が。
だけど、なににしていいかわからないけど,感謝です。
気付けたのだから。
そろそろ、泣きたくなる入江泰吉の写真を,何年かぶりに開きたくなっています。