邂逅

入江泰吉、という写真家がいる。
正しくは、いた。
奈良、つまり大和の自然と、奈良に生きる仏像を数多く写真におさめた人。


泣きたくなる写真を撮る人。


邂逅(かいこう)とは、思いがけなく出あうこと。偶然の出あい。めぐりあい。の意。


入江泰吉の写真集のひとつに、「邂逅(入江泰吉仏像写真の世界)」があって、
奈良の彼の美術館で、取り寄せて購入した両手でなければ持てぬほどの重たく大きな本。
そのなかには、生きた仏像が、何体も眠ってる、そんな本。


QueenMade in Heaven」や Billie Holiday「Strange Fruit」のように、
いつでも聴けるわけじゃない音楽がある。
それ相応の心構えと、心持ちがなければ、やられてしまう音楽がある。


入江泰吉の「邂逅」は、そんな、写真集。
滅多には、開くことができないのだ。





数日まえ、あたしは、邂逅した。
偶然は、必然の隠れ蓑,なんて、あたしは思ってて、
それは、時が満ちた時に巡ってくる贈り物だと、重ねて,思う。


あたしは先祖を神だと思ってる,いわば無神論者,なのだけれど,
天の計らいってあると思う。


舵を採ってるのは、きっとそれぞれ自分の心なのだろうけれど,
人智を越えた流れというものはきっとあって,
常にうねりながら、
四次元、五次元の境界線を軽々と飛び越えつつ,変化を繰り返してるのだと思う。


こうしてもらいたいから,こうする,という、心を操るようなことをするのは無意味、
って、まえに書いたけれど,
そんなこと、ほんとになんの意味もなく、言ってしまえば、下らないことだと思う。


まずは、ベクトルを一方向に向ける。
こうしたい、こうしたらいい気がする,こっちのが絶対いい,これがいいよな。
とにかく、主観的なベクトルを飛ばす。
もちろん目指す結果はあってしかるべきだけれど,
その結果を得るために,操作するのはよくない,って言うことなのです。


一方向に飛ばしたベクトルが、ある程度進むと,ちょっと違う方向にも飛ばしたくなる。
むずむずしてきて。
そしたら、さっきとは違う想いで,また,違った一方向にベクトルを飛ばしてみる。
それが,いい,気がする。
正しいかどうかなんて,わかりません、あたしの主観だから。
ただ、あたしは信じて,そうしてる。
そこんとこが、大事なんだと思います。


ここになんども書いてることだけれど。


結果は,数秒後にわかることもあれば,一週間かかることもあります。
一年待たなければならないことも,何年も、何十年もかかることもあります。


死んじゃった大好きなじいちゃんは,死ぬちょっとまえに,
「なぁ、やっとわかったわ、なんで生きとったのか」って言ってました。
答えは、死んじゃったじいちゃんしかわかりません。
だけど、じいちゃん,わかって死ねて,きっと幸せだったと思います。


あたしが,今の時点で答えを出すのならば,
なぜ生きてるのか?
それは、生まれたから,だと思います。


そして、せっかく生まれたのだから,思いきり生きようや,って思います。
じいちゃんみたいに,死ぬ瞬間のその時に,「わかっちゃったー」って思いながら、
笑って終えられるように,思いっきり生きたいって思います。





そう,邂逅。
心のなかで完結していた多くのモノコトを、出す術を学ぶ時が来たことを感じたのです。


ふとしたことです、気付きは。
なんでも、ふいに、やってくるもの。
偶然,という隠れ蓑を被った必然が。


だけど、なににしていいかわからないけど,感謝です。
気付けたのだから。


そろそろ、泣きたくなる入江泰吉の写真を,何年かぶりに開きたくなっています。