記憶




déjà-vu(デジャヴュ)。
wikiで引くと、「既に見た」の意、実際は一度も体験したことがないのに、
すでにどこかで体験したことのように感じること、とある。


あたしは、というか、わりとみんな何度かはdéjà-vuだと感じたことがあると思うけど、
それって、魂の底に無意識でこびり付いてる、記憶、のような気がする。


単語や年代、新しくコピられた現代造語を憶えるのは、記憶とは言わない気がするのだ。
そもそも、記憶、という言葉は、それだけで完結してる言葉であって、
記憶する、などと使うのは、あたしは間違ってるような気がする。


初めて会ったような気がしない、というのは、たぶん、
無意識の記憶のなかにある、なにか、なのだと思うのだ。


言葉にできないけど、好き、だとか、
うまく説明できないけど、どうしても、なんだか嫌い、というのは、
ひとりひとりが無意識に持ってる記憶のせいだと思えてならない。


写真を撮るとき、あたしは、いつも、目に見えないなにかを信じて、撮ってる。
ような気がする。


きれいな風景、美しい人、素晴らしい工芸品、歴史ある建物。。。
どれも、技術だけで撮影するには、限界があるように思える。


撮るモノの向こう側にあるナニカ、背負っているナニカ、
そのモノと自分の間に生まれるナニカ、これから辿るだろう行く末、とかいろいろ、
受け止めて、ファインダーにおさめてないと、あたしは、撮れない。


そんなとき、ふと、覗いてる風景の、記憶、みたいなものが、香ってきたりする。


決して共有などできない、その記憶を、もっと知りたい、と思う瞬間、
あたしはシャッターを切ってる。


déjà-vuに出会ったときは、たとえカメラを構えてても、なぜか撮れない。
撮ったことがない。
たぶん、もう知ってるから、知りたい、という欲求が生まれないから、かもしれない。