雪深き地




六年前の冬、思い立って、ひとり青森の雪深い地を訪ねたことがある。
お宿の写真も、下に紹介するつもりだから、敢えて、場所は書かない。
が、上の写真を見て、あ、と思われる人も多いと思う。
地元の人の運転でしか、車は通るのが危ない、とまで言われる場所だ。





これが、泊まったお宿の二階から玄関を見たかんじ。
美しい宿だった。
むろん今も、ある。


歴史と、厳しい自然のなかでそれを守る宿の方達の優しさと、訪れる客の安堵に満ちた、
大きな母体のような宿だ。
そして、二十四時間好きな時に浸れる湯も、極上だった。


零度を下回る地に、冬、ひとり旅をしたのは、落ち着きたかったからだ。


気持ちや、事態が急速に動く時期がある。
ある程度の予測をしながら日々みんな過ごしてると思うけれど、
それを遥かに超えるほど、もの凄い速度で、
人生の中で繰り広げられる物語が進むことがある。


その渦中で、日々の出来事に対応するだけの毎日を送ってたとき、
行ったことのない青森のある地を、たまたま雑誌で読み、行こうと思い立てたのだ。


三日間。
朝から降り続く雪を見て、湯に浸かり、昼、雪がしばし休む時には散策を楽しみ、
宿の方達の心配りにあふれた美味しい夕餉にも舌鼓を打った。


帰り支度をする頃になると、
渦中、だと思っていた、あたしの居る場所が、渦中ではない、と思えるようになった。
ただ、あたふたしてただけ、だったと思えた。


闇のなか、美しい朝焼けのなか、きらきらと陽が照るお昼、暮れ掛かる山中、
いずれの時も、ただ、こんこんと降り続く雪を見てたら、
あたしは、あたしでいいのだ、と感じた。
自分以外の誰にもなれるはずがないし、したくないことはできないのだ、と思えたのだ。


あれから六年が経とうとしてる。
懐かしい、と思える、あの雪深い地も、そこを訪れた時のあたし自身の心持ちさえも。


快晴の日もあれば、土砂降りの日もあって、しとしと雨のような日も、
雪降るような日もある、きっとこれからもずっと、それは繰り返し訪れる。
なんとかなる、のである。
ときに待ち、ときに猪突猛進し、ときにゆったりと散策するように、過ごそう。
誰の人生でもない、あたし自身の人生だ。
なるようにしかならない、ではなく、なるようになる、のだ。
受け入れて、消化することで、不思議な化学変化が起こったりするのだ。
大切なのは、歩き続けることを諦めないことだ、って思う。