酔宵
このブログを「吐息日記」としたのは、息を吐くように、
想ってるそのまんまの言葉を綴る場所にしたかったから。
ここには、今住んでる東京という地名以外、
あたしの本名も明かしてないし、出身地も、なんにも明らかにしてない。
それは、ほんとの気持ちを綴るための大切な羽衣。
とはいえ、ここにぽろぽろと書き綴るうちに、
なんとなく、いろいろとわかってしまうものなんだろうな、言葉の端々に、
今どんな仕事をしてて、どんな感じで暮らしてるのか。
そんなことは、いちいち書くことでもないのだけれど、なんとなく。
ひさしぶりに燗をつけて、ちびりとやってるものだから、
なんか気持ちがぴりっとしてるのかもしれない。
一昨日、以前、仕事を戴いてた方から、とてもひさしぶりの連絡を戴いた。
その方が居る会社は、会社更生法の適用を受け、
実質的には倒産し、倒産のその瞬間に生き返った、という状態で、
今も、どんな業務に関しても裁判所の指導を受けながら、業務を続けてる、そんな会社。
あたしはその担当者の仕事の仕方が大好きで、
嫌われ者で高名だったその方と、未だかつてないほど長い期間仕事をさせて戴けた。
なにが好きかというと、スケジュールを厳守することと、約束を守ること。
これは、あたしの居る業界では、破られることがあたりまえで、
それがあたしは我慢できずに、もう十ン年、業界内で仕事をしてる。
その方に出会って仕事をするうち、あたしのその思いを崩さなくていいんだと思えた。
会社更生法を適用して、債権者会議に出席した後、
あたしは、その担当者に、あたしのその想いを託した手紙を出した。
あなたとの仕事がどれほど気持ち良かったか。
今のこの状態、会社更生法適用の状態を、あなたに逆恨みしていたりしてないこと。
またぜひ一緒に仕事をしたいということ。
そのあと面倒な連絡を何度かしたけれど、あたしが過去抱いた気持ちを存続できたのは、
その担当者の方が言った一言だった。
私を信じてください。
こんな状態にあって、細かな説明は意味を成しません。
一緒に仕事をしてきたあなたに、私は強い信頼を寄せています。
ですから、これしか言えません、私を信じてください。
あたしは、その担当者の言葉を信じた。
そして、その方を信じた。
そして、一昨日の電話、今日の打合せで、その方を信じてよかったと確信できた。
あたしが高校生の頃、逝ってしまった大好きなじいちゃんがよく言ってた。
男女関係なく、好きな人間に出会えたら、信じることだ。
疑って裏切られるより、信じて裏切られた方が、俺は、いいと思ってる。
裏切られた人より、裏切った人の方が、ずっと重い荷を背負うことになるんだよ。
すぐわからなくても、いつか、それはきっとわかっちゃうんだ。
いい歳してバカ正直ね、とか、
そんな素直に受け止めてたら世の中渡っていけないよ、とか、
いろいろあたしのためを思っていってくれる友人が居るけれど、
それでも、男女に関わらず好きな人間に出会えたら、あたしは、まず信じる。
因果は巡る、と思う。
人にひどいことをしたら、それは、巡り巡って、自分自身に返ってくる、と。
逆に、人に優しくしたら、たぶん、巡り巡り、人に優しくしてもらえる、と思う。
単純な例だけれど。
償うということは、とても辛く厳しいことだと思う。
自分の内面に心の目を向けることは、
時に、自分でも知らない一面を見つけてしまう可能性を秘めてるから。
だけど、実際に罪を犯すまえに、
自分自身で、自分が裁判官となって、償いはじめることはできる。
戒める、それが、その行為なんだと思う。
そのまんま、素直になる、ということのなかには、
そんな自分で自分を戒める行為も含んでる。
人を信じて命を落とす人。
人を裏切って生き続けてる人。
あたしは神ではないので、命のやりとりを操作できるはずもないけれど、
人を信じてた人が、四次元でも、五次元でも、六次元の世界でもいいから、
再び、美しい心を持って、幸せな時間を過ごせたらどんなにいいかと思う。
真実を語ること。
それは、人の心を開くだけでなく、
鍵を無くしたと思ってた自分の心をも、開くことができるような、気がする。
誰もが、ほんとは美しい人間で、
奇跡はあたしたちが暮らす日常に幾らでも落っこちてる、と思う。
自分に、自分で、嘘をつかないことが、まずすべきことかも、と最近思う。