雲海




youtubeで見つけた美しい雲海の動画。
安曇野じゃないけど、同じ長野で、こんな足が浮き立つような雲海に遭遇した。


一時間ほどすると、雲がするりと薄くなり、なにもなかったかのように景色が広がった。
たぶん翌朝も、朝焼けまで、雲は山の波間を漂い遊ぶんじゃないか、と思えた。


雲海に出会うと、あたしは、すべてが肯定されたような気になる。
なぜか理由はわからない。


波を打つグラフのように、人も、歴史も、自然も、宇宙でさえ、
ある状態とある状態の間を行ったり来たりする。
全体でみると上向きだったり、下向きだったりしても、
短期間では、同じ場所を行ったり来たりしてるように見える。


その自然の振幅は、太古の昔から繰り返されて、
今、人は、地球の主のように振る舞っているけれど、
さて、そんなわけはない、って、あたしは思う。


人が生まれるずっとずっとまえから自然は存在してて、
地球もそのまえから存在してて、宇宙も、もちろん存在してて、
人間という生き物の歴史なんて、何億年というスパンでみれば、爪のアカほどもない。


ちっぽけで、自尊心が高くて、
まるで人間が生きているのが地球だ、と言わんばかりの所行を続けてる。


長幼の序、という言葉は、年長者を敬うという意味がある。
人間にとっての年長者は、間違いなくたくさんいて、自然は最も解りやすい年長者だ。


まず自然があって、そのなかで暮らすためにどう工夫するか考えるのが人のすべき思考。
ここに暮らすからそこにある自然を壊すとか、削るとか、そもそも、違ってる。


そんな悲しい矛盾を、雲海は、許してくれてるかのように思えるのだ。


そして、人も、自然の一部なのだと諭してる気がしてくる。


生も死も、人の自然な営みのひとつ。
いや、イキモノの自然な営みのひとつ。
生きているものは、いつか必ず朽ちる、枯れる、死ぬのだ。


そんな刹那を、あたしはようやく受け入れられるようになってきた。
余命を宣告されてるわけではなく。
心ではまだ恐いよ、だけど、頭では、ストンと腑に落ちるのだ。
ようやく理解だけはできてきた。


森が好き。
深い森の、あの、土と樹と水の匂いが、堪らなく好き。


雲海に出会うたび、恐くて、けど、幸せになる。
ちっちゃなことなど、ふっとぶ、あの感覚が懐かしく想えるのだ。