言葉にできないさまざまなことが、めまぐるしく日々起こってて。
輝く朝日を眺めてても、灼熱の陽を浴びてても、夜陰の風と呑んでても、
歩いてきた道や、これから歩いてゆくまだ見ぬ道に、想いが巡ることしきり。


 あきらめないで。


という言葉を、あたしは、よく使う。


主語は、ほとんどの場合、付けない。
なぜなら、限定してしまうと、もったいないから。


あたしが発するその言葉を聞く、その人の、
無意識に深まった想いを狭くしてしまうから。


誰かを想うその気持ちをあきらめないで、とか。
一所懸命にがんばる努力はきっと報われるよ、あきらめないで、とか。
友達を大切に思い行動するその姿勢、あきらめないで、とか。
試験絶対通るよ、あきらめないで、とか。
夢はきっと叶うよ、あきらめないで、とか。


そんな具体的な意味も、含まれて、なくはない、のだけれど。


なにより、伝えたいのは、生きるぜんぶに対しての、あきらめない、ことなんだ。


なにか問題に出会うと、
現時点で、問題と自分の距離を測って、あるジャッジを、みんなする。
あたしも、する。
その時点で、越えられる訳がない、と思うのはよいのだけれど、
越えられない、と結論してしまうのは、間違ってる、と思うのだ。


 今は越えるのは無理だなぁ。
 じゃあ、越えるために、どーすっかなー。
 越えたいもんなぁ。


って、思ってほしいし、あたしも思いたいのだ。


山越えが無理なら、山のフチの道を歩いたっていいじゃないか、と思うし、
しょーがないなぁ、山越えするために飛行機作ろうか、でもいいし、
よっしゃ、トンネル掘ったる!でもいいし、
四輪駆動の車調達する!でも、もちろんいい、と思う。


もちろん比喩だけれど、
越えたい山を越えるのは、歩いてだけ、なんて思わなくていいのだ。
自分のできる方法で、自分の使えるだけの時間を使って、持つ力を使って、
どうしたら越えたい山を越えられるのか、その思案に、心と頭を使いたい。


 あきらめないで。


なのだ。


 越えられない困難は与えられない。
 越えられる人にこそ、その困難が与えられてる。


よくこの言葉も使うけれど、あたしはそう信じて生きてきた。
”なんとかなるさ”ではなく、”なんとかする”のだ。


耐えることも、ひとつの立派な行動。
なんにもしないで、日々淡々と過ごしてみる、と決めるのも、立派な行動。


要は、そこに、意思があるかどうかなんじゃないか、と思う。


越えたい山を前にして、
なぜ越えられないのか、日々淡々と考えてみるのも、素晴らしい行為、だと思う。
それは、あきらめてない、から。


山を越えることに魅力を感じなくなったのなら、やめたらいい。
それは、あきらめたこととは、まったく違う、から。


越える方法がわからなくとも、あたしは、あきらめない。
あきらめざるを得ない、と思えても、あきらめたくない。
生きている、と実感しながら、あたしは人生を歩いていきたいんだ。


陽が沈むと、蒸すような暑さのなかに、秋の匂いを漂わせる風が吹く。


越えるだけ越えてきた、と思えた過日。
それでも、これでもか、と、山が立ちはだかる。


山をひたすら進むとき、そして越えたそのときには、
また、かけがえのない宝物が得られるのだ。


その魅力と、叩き壊せぬ壁がだぶって、
困難に、惹かれてしまうのは、あたしの困ったクセのひとつ。