数年まえに結婚して子供が一人いる古い友達から、もの凄くひさしぶりに電話があった。
とても疲れてて、けど、日々仕事に邁進してて、それから、ちょっとだけ寂しそうに、


 音楽は、趣味だからね。


と言いながら、ライヴの予定なんかを話してくれた。


彼は、昔も今も、あたしにとっては、親友。
だから、ぜったいに幸せになってほしいと、昔も今も強く思ってる。


しかし、長電話も一時間を超えようとした頃、
彼はグラス片手に電話してた声を、ちょっとだけ低くして、こんなことを言った。


 あまりうまくいってないんだよね。
 最悪の時はもう超えてるけど、なんか、もうどうでもいい関係みたいでさ。


って言った。


 愚痴、ごめん。


って言って、その話題を自分で打ち切った、あたしの親友は、
昔、あたしにした質問を、もう一度、全く同じ言葉で、あたしに投げかけた。


 あなたは、一人で幸せになれなきゃ、二人で幸せになれない、ってよく言ってたよね。
 俺にはその意味が解らないんだ。
 二人になれる確信があった幸せ、っていうんだったら、解る。
 だけど、約束もなにもない状態で、一人で幸せになるなんて、不可能じゃないかな。


愛する人に、愛される。
愛してくれる人を、愛してる。
それは、素晴らしいこと。
愛こそ、すべて。
あたしも、そう思う。


だけどさ、人は、一人で生まれ、一人で死んでゆくんだ。
寂しいことじゃなく、これは、事実なんだ。


生まれて、死を迎えるまで、人は、その人だけの人生を謳歌する。
さまざまな愛を知り、人の優しさに触れ、優しさを分け与えることの尊さを知り、
生きることの意味を時に想い考え、悩み、解決して、
いや、言葉にできぬほどの体験を得ながら、生きる。


 一人で幸せになる、ってことは、
 宇宙よりも広い、一人一人みんな各々の心のなかで、実体験よりも大きな成長を遂げる、
 ってことなんだと思うんだ。


 自分を知る、ってことも、そのなかに含まれる。
 知った自分を、もっともっと成長させてゆくその過程も含まれる。
 その過程を喜びに感じることも、含まれる。
 心に描いたことを、活かせた時に感じる喜びも、そのなかに含まれる。
 すべての体験に対して、あたしは、幸せだ、と想えるの。


 すくっと美しい姿勢で生きてる人を、幸せだ、と思うんだよね。
 自分のことを100%は不可能にしても、それに近づくように理解してる人が美しい、
 うん、人として、美しい、と思うんだ。


 そんな人なら、愛する人に出会い、二人になっても、
 自分を慈しんだように、愛する人を慈しみ、愛せる、気がするんだよね。


親友の彼に、そんなことを話した。
昔と同じように。


 あなたは、強い人だね。
 どうしてそんなにがんばれるの?


そう聞かれたから、昔と同じ答えを言った。


 美しい人に、なりたいの。


年が明けたら会おうという彼に、


 一緒に暮らす人とのコミュニケーションを中途半端にしたままじゃだめだよ、


と、あたしは言った。


カップルでいることは、べつに、そんなに大事なことじゃない。
なん年も会えなくても愛してる、そんな風に想える人もいる。


宇宙よりも広い心のなかに、愛する、その気持ちが芽吹いてることが、大事なのだ。
その想いが叶うかどうかは大事なことじゃない、って、あたしは思う。


心に芽吹いた愛する気持ちを、大事に育てて、ときにその成長を待ちながら、
花を咲かせるのだ、いつか、きっと。


どんな花が咲くのかは、誰も知らない。
想い描いた花と、違う花が咲いたとしても、気持ちを大事に育てたなら、
決してガッカリなんて、しないと思う。


こんな花が咲くのね、って、むしろ喜びに震えるような、気がするのだ。


あたしは、強くない。
ただ、自分の想いを信じたいんだ。
なりたいビジョンに近づきたいから、そのビジョンを真似したい、と思ってるだけなんだ。
いつか、その真似っこが、自分のモノにできる日を信じて。
ただ、それだけなんだ。