贅肉と選択
あたしが積極的になると、その対象のモノコトは、あまりうまく進まない。
いい例が、あたしが雨女である、ということ。
ほかにも、いっぱい、いっぱい、ある。
あまり抽選モノに申し込んだりしないあたしが、これ!と思うモノに出会い、
かなりの高い確率で当たる場合でも、必ず、あたしは落選する。
恋愛は、もっと顕著だ。
離別に至るほどの大事にはならなくとも、積極的に言動すればするほど、いかん。
ずいぶん昔にそれがわかってからは、
会いたい気持ちを貯める時間を、ひとりで、とても気持ちよく過ごせるようになった。
世間で言う妙齢を、たぶんもう過ぎてるあたしに、
母は、結婚が女の幸せだ、と常に言う。
誰でもいい、などとは彼女は言わないが、半分そんな気持ちで、娘の行く末を案じてる。
気持ちは、あたしなりにわかる。
しかし、あたしは、みんながこうしてるから、という動機が、大っ嫌い。
世に言われる常識みたいなモノコトに、
生き方の標準をあわせるのは、おかしい、と思う。
人生とは、その人の生きざま。
あたし以外の、誰も決められない、唯一のモノだ。
長く生きれば生きるほど、余分な贅肉がたくさん付く。
あたりまえのことだけど。
しかし、大切なモノを見分ける選択の力も、年齢の分だけ、付いてるはずだ。
自分にとって大切なモノだけと共に、あたしは生きていきたい。
余分なモノを削ぎ落として、美しい生き方をしたいのだ。
それを母に理解してもらうことを諦めないで、
ほんのちょっとずつでもじりじり寄り添いたい、って思う。
あまり積極的になると、たぶん母には理解できずに、喧嘩になる。
だから、ちょっとずつ。
母と、だけでなく、誰とでも、急がずにちょっとずつ、焦らないで、歩きたいなと思う。